チェコスロバキアが独立を志せば、富山の主婦が暴動を起こす

欧州大陸は基本的に左ハンドルです。自分が住んでいる都市内だけで生活する分には公共交通機関を使えばいいのですが、ちょっと郊外に行こうものなら車が必須になります。

 そんなわけで右ハンドルしか運転したことない身としては車の運転に不安を覚えるばかりですので、同僚に「左ハンドルの練習したいから最初にちょっと助手席に乗って教えてくれんかね?」と声かけしたところ、「じゃあついでに旅行でもするか」ということで日帰り車旅をすることになりました。緊急事態宣言延長がかかった日本からすると若者が車で旅行なんて信じられない!という感覚かもしれませんが、ガンガン緩和措置が取られているこちらでは国内旅行は何の気兼ねもないです。

 

というわけで車をレンタル。人生初左ハンドルにして人生初韓国車(ヒュンダイ)です。こちらの国では日本ほどレンタカーのサービスは進歩しておらず、借りるには空港まで行く必要があります。また、価格も日本とほとんど変わらないので物価差を考慮すると割高です。

 

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今回の旅行では、シュテファーニク将軍廟に行ってきました。写真のような石造りの巨大な墓が小高い山の上にあります。

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この人、日本人が学ぶ世界史ではなかなか名前が出てくることはないのですが、スロバキア人の投票による「偉大なスロバキア人100人」においては堂々1位という、スロバキアでは屈指の人気を誇る偉人です。

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余談ですが、この国にはこういう生首オブジェがたくさんあります

 

生い立ちや当時の情勢をざっくり説明すると、元々シュテファーニク氏はスロバキアの田舎町に生まれ、大学在籍時にめきめき頭角を現し、当時の学問の中心パリへ移って、パリ天文台で研究をしながら1912年にはフランス市民権を取るに至りました。

ちょうどそのころ第一次世界大戦が勃発。当時、母国のチェコスロバキアオーストリアハンガリー二重帝国に支配され、域内では帝国支配に対する不満が高まっている最中でした。

当然、チェコスロバキアオーストリア支配下にあったため、協商国側としてロシアと戦うこととなります。ところが、スラブ系住民の多いチェコスロバキアでは同じスラブ系であるロシア人へ親近感を持ていったため、多くのチェコスロバキア人はロシアと戦わされることに対して嫌悪感がありました。

そこで、当時フランスにいたシュテファーニクはフランス軍パイロットとして連合国側として戦争に参加する一方、パリでチェコスロバキア国民委員会を設立し、チェコスロバキア独立のための外交活動を展開するようになりました。その折、連合国側も協商側の内部分裂工作を企んでいたため、国民委員会一派の行動を側面支援し、チェコスロバキア独立を後押ししました。

この流れによって、オーストリアハンガリー帝国軍内のチェコスロバキア人部隊は、当時戦っていたロシア帝国軍に投降。新たに「チェコスロバキア軍団」というロシア軍の一部として再編され、連合国側の一員として母国独立のために戦うことになりました。ところが、オーストリアから見れば反乱軍でありそのまま西に戻ってくることができないので、彼らをシベリアまで運びそこから日本・アメリカを経由してフランスへ送り、西部戦線に投入しようというさすがに当時の交通網からしたら頭おかしいんじゃないか、という作戦が立てられ、義勇軍はロシアを東奔することになります。

しかし、同時期にロシアで革命が発生。ロシア帝政が倒れ、新たに共産主義政権が誕生しました。さらに、その後に革命勢力が分裂し、赤軍vs白軍というロシア内戦状態に突入。そうした混乱したさなか、ロシア領内にいたチェコスロバキア軍団はなんやかんやあって赤軍と交戦することとなり、ロシア内で孤立状態となりました。

この孤立状態に目を付けたのが連合国側です。当時連合国側は、ロシアで起きた労働者革命が各国に広がることを恐れていたため、ロシアの革命勢力を潰したいという野望がありました。しかしながら、それを公然と言い放ってしまうわけにはいかないので、建前を立てて軍を差し向ける理由が必要であったわけです。そのため、「ロシア領土内に孤立したチェコスロバキア軍団を救出する」というのは非常に理にかなった建前でした。こうして、連合国が軍を出し合ってロシアへチェコスロバキア軍団を救いに行ったわけです。

ここで、ようやくタイトルの米騒動の話になります。米騒動(1918年に起こったもの)は、元々第一次世界大戦の勃発で徐々に高騰していった米価が、シベリア出兵を境に一気に暴騰。当時、貧困層エンゲル係数の高い米食生活であったため、価格高騰の影響をもろに受け不満が増大、結果として庶民による商社襲撃などの暴力行為になったわけです。まさか中央ヨーロッパの小国が独立を目指した結果、富山の主婦の怒りを買うということになろうとは予測もつかない話です。

 

ちなみにシュテファーニク将軍は当時に外交活動のためにヨーロッパ域内の他、アメリカ、太平洋諸島など世界中を旅行しており、実は日本にも来ています。日本語情報がほとんどないのですが、どうやら1918年、原敬内閣の時に来ていたらしいです。

 

あと、上記したチェコスロバキア軍団の顛末なんですが、結局彼らの本来の目的である西部戦線への参戦は、ドイツがすでに降伏してしまったため、叶いませんでした。その後、実際に日本・アメリカ経由で本国まで帰還できたのですが、一部の兵士は道半ばで死んでしまい、そのお墓というのが日本の府中にあります。

 

そして、シュテファーニク将軍なのですが、大戦が終結し祖国独立した後、祖国で要職に内定していたため飛行機で母国へ戻る途中、墜落事故を起こしそのまま死亡。その後、チェコスロバキア社会主義化したことによって一旦は歴史上忘却されてしまったものの、冷戦終結チェコスロバキア分離とともに、スロバキア建国の父として評価が急上昇。現在、首都近郊のブラチスラバ空港には「ミラン・ラスチスラウ・シュテファーニク空港」という名前がつけられています。墜落事故を起こした人の名前を空港に付けて大丈夫なんでしょうかね。